進化説について

1) ダーウィン以前の進化思想

 パスツールのS字型の首のフラスコの実験の5年前に,イギリスのチャールズ・ダーウィン(1809−1882)は『種の起原』(1859)を出版して進化説を唱えた。しかし,生物が下等なものから高等なものへ進化していくという考えは,ダーウィンが初めて発表した訳ではない。

 以前にも登場した,古代ギリシアの哲学者であるアナクシマンドロスは,太陽が海の泥を泡立たせて,その中からさまざまな動物が発生し,そのうちの魚の形をした動物が脱皮して陸に上がり,人間などの陸上の動物が誕生したと考えていた。この考えは,ある種の動物から他の種の動物が生じて進化していくという,ダーウィン的進化論を先取りしていると考えられる。しかし,アナクシマンドロスのような思想はどちらかと言うと少数派であり,中世から近代に至るまでの間は先週話題になったようにキリスト教的自然発生説が優勢であった。生物は神の力によって創造されたものであり,生物の種は,創造されたときから不変のものであると信じられていた。

 1735年にスウェーデンのカール・フォン・リンネ(1708−1778)が『自然の体系』という本を出版して,近代的な分類学の基礎を作った。彼は当時知られていた1万4000種の植物と4000種の動物を,大きい順から,綱・目・属・種という4つの分類の単位を用いて系統的に分類した。そして,それぞれの種に属名と種名を用いて固有の学名をつけることを提唱した。このリンネの系統的な分類方法によって,生物の種間の関係が整理し安くなった。しかし,リンネ自身は神による生物の創造を信じており,生物種の数は神による創造の時から変わっていないと考えていた。

 また17〜18世紀になると,比較解剖学が発展して,動物の相互関係に対する知識が増えてきた。比較解剖学の発展に関しては,フランスの二人の動物学者,ジョルジュ・キュヴィエ(1769−1832)とジョフロワ・サンチレール(1772−1844)が中心的役割を果たした。そして比較解剖学の発展のために,動物の個々の器官が互いに比較できるようになり,それによって種間や属間の相互のつながり合いに対する洞察が深まってきた。例えば,近縁の種では外見が異なっている器官でも,解剖学的には類似した構造を持っているものがあることがわかった。また,遠縁の種でも同様な働きをする器官は類似した構造を持っていることがあることもわかった。余談ながら,キュヴィエとジョフロワは,後に種の不変性に関して全く反対の立場をとった。キュヴィエは種は不変であると主張し,一方ジョフロワは種は変化し得ると主張して,互いに論争しあった。

 さらにこの頃になると,化石が過去に生存していた生物の遺骸だということが明らかになってきた。それ以前にも化石の存在は知られていた。しかしアリストテレスは,化石は地底で自然発生した生物が地上へ出られずに死んだ遺骸であると考えていた。また中世には,化石は神が創造した生物のうちの,神の意にそぐわぬ失敗作が地中に廃棄されたものであるというように考えられていた。

 化石の科学的研究に貢献した科学者は,前出のキュヴィエである。彼は主として哺乳類の化石を研究した。しかし当時は,過去の地層から発見される化石は,聖書に書いてある大洪水のような天変地異の時に死んだ生物の死骸であるという考えが優勢であった。

 分類学と比較解剖学の発展及び化石の科学的研究から,18世紀半ばには「生物の種は不変である」という思想に対する疑問が生じてきた。この思想は,特にこの時代のフランスで盛んであった。

 フランスの数学者ピエール・モーペルテュイ(1698−1759)と,博物学者ジョルジュ・デ・ビュフォン(1707−1788)は,自分の著書の中で動物の進化に関して述べている。モーペルテュイは『人間と動物の進化』(1745)の中で,家畜の交配などの結果による新しい種の起源についての考察をしている。またビュフォンは,全60巻の大著『博物誌』(1749−1804)のいくつかの巻の中に進化論として読み取れる記述をしている。しかし,同じ著書の中には進化論を否定するような記述も同時に存在するので,ビュフォンが進化思想を持っていたと断言することは出来ない。また,同じくフランスのパウル・ディートリッヒ・ドルバック(1723−1789)は,『自然の体系』(1770)の中で明確な進化思想を示している。しかし,彼らの進化思想には,「なぜ生物は進化するのか。どのように生物は進化したのか」という疑問に対する答を含んでいない

 フランスの動物学者ジャン・バティスト・ラマルク(1744−1829)は,チャールズ・ダーウィン以前の進化論の中で最も重要な位置を占める人物の一人である。ラマルクは前出のビュフォンの弟子で,最初植物の分類学に従事し後に無脊椎動物の分類学に転換した。また,彼は化石の科学的研究にも従事していた。そして,それらの研究の成果として記した,『動物哲学』(1809)及び『無脊椎動物誌』(1815−1822)の中で,動物の進化に関して述べている。それによると,生物はまず無機物から自然発生によって小さい胞状のものとして生じ,それが持つ生命の能力によって自ずから発達し,複雑化していった。ラマルクの思想には神による自然発生などの超自然的な原理は前提とされていない。また,このような自然発生は絶えず起こっていて,そのために種々の発達段階にある生物がこの世界に存在すると考えた。この考えを前進的発達(Progressive Development)と呼ぶ。そして,新しい環境条件や新しい修正が生物の器官を変化させ,その変化が子孫につたえられるという,獲得形質の遺伝による進化の概念を提唱した。

 ラマルクの考えは,よく次のような例によって説明される。「キリンは最初は長い首を持っていなかったが,高いところにある木の葉を食べたいという『欲求』のために徐々に首を長くしていった。そして,首の長くなったキリンの子供が生き残って現在のキリンになった」

 つまり,器官の使用度合いが大きいほどその器官は発達し,逆に使用度合いが小さいとその器官は退化するということになる。ラマルクの進化説のことを「用・不用説」とも言う。

 ラマルクの進化説の要点は,次の四点である。

 1. 生物はそれ自身の力で体全体と個々の器官をできる限り大きくしようとする「欲求」を持つ。

 2. 動物には絶え間なく新しい器官を作ろうとする欲求があり,それに基づく運動を続けることでこれを実現する。

 3. 器官の形態と機能はそれらの使用度合いに応じて発達する。

 4. ある個体が生涯の間に獲得した変化は,すべて子孫に遺伝する。

 しかしこのラマルクの進化説は,パリの自然史博物館の同僚であるキュヴィエによって激しく非難された。この二人の論争は,キュヴィエの勝利に終わり,その結果,ラマルクの進化説は影響力を失った。

2) ダーウィンによる進化思想

 一方,イギリスではチャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラスムス・ダーウィン(1731−1802)が『ズーノミア,あるいは生命の法則』(1794−1796)の中で,自然淘汰による生物の進化について述べている。彼は,生命はかつて海中で発生し,フィラメント状の原始生命からの進化で両性・陸生の多数の生物が生じた,と説いた。そして,彼の著作には比較解剖学の知識も盛り込まれている。

 チャールズ・ダーウィン(1809−1882)は,最初は医学を学んだが後に神学を学び,最終的に博物学に興味が移った。そして,1831年12月から1836年10月までイギリスの軍艦ビーグル号に乗って,南アメリカ大陸や南太平洋の諸島の動植物及び地質を調査した。南アメリカ大陸やガラパゴス諸島での地域的な環境による動植物の変異や分布の変化の観察,また化石動物と現生種との類似などが,ダーウィンに対して生物種の進化に関する考察を始める動機を与えた。有名な例としては,ガラパゴス諸島のゾウガメの甲羅の形状と,ダーウィンフィンチという小鳥のくちばしの形状の観察である。そして,そのような航海時の観察の結果と,自分の祖父の著書と,チャールズ・ライエル(1797−1875)の『地質学原理』(1830−1833),及びトーマス・マルサス(1766−1834)の『人口論』(1798)などから着想を得て,自然淘汰による適者の生存をベースとした生物の進化論に到達した。

 ダーウィンは自分の考えを短い論文にまとめたが(1842年の『スケッチ』と1844年の『エッセー』),それを発表せずにしまっておいた。ところが,1858年にダーウィンのもとに一報の論文が届いた。アルフレッド・ウォレス(1823−1913)は在野の博物学愛好家で,当時の地質学の著作や自らの自然観察の結果から,ダーウィンと全く同様な自然淘汰による生物の進化説に達した。1858年に,ダーウィンの論文とウォレスの論文を一つの表題でまとめた共著論文の形で,リンネ学会例会で発表された。そして,ダーウィンは1859年に『自然淘汰による種の起原について』という本を出版した。この本の出版によってダーウィンの進化説は,広く知られるようになった。

 ダーウィンの進化説は,要約すると次のようなものである。

 1. 生物は子孫を残すために多くの子供を生むが,生まれてくる子供の形質は少しづつ異なっている。

 2. 個体間で生存競争が起こり,それに打ち勝った個体のみが生き残る。この生存競争に勝つためには,周囲の環境に対して都合のよい形質を,他の個体より多く先天的に備えている必要がある。すなわち「適者生存による自然淘汰」である。

 3. そして,適者生存による自然淘汰が数世代続くと有利な形質が助長されて,最初の生物や変化の途中の生物ともはっきり区別できる,新しい種属の生物が出来上がる。

このダーウィンの進化説を「自然淘汰(自然選択)説」とも言う。

3) 地球の年齢についての当時の考え

 17〜19世紀には,地球の年齢はどれぐらいであると考えられていたのだろうか。アイルランドのイギリス国教会の大主教だったジェームズ・アッシャー(1581−1656)は,聖書に記されている数々の出来事に基づいて天地創造の日時を算出した。彼が1654年に行った計算によると,地球はグリニッジ標準時の紀元前4004年10月26日午前9時に誕生し,その年齢は5658年であった。

 地球の年齢を科学的に推定する方法としては,当時は3種類の方法が考えられていた。1)海水の塩分濃度の増加速度から推定する方法,2)堆積岩層の厚さと堆積速度から推定する方法,3)地球からの熱の損失から推定する方法,である。

 1)当時は,最初は淡水だった海洋が,地表からの塩分の溶出によって現在の塩分濃度になったと考えられていた。海洋の塩分濃度の測定による地球の年齢測定の結果としては,1899年にイギリスのジョン・ジョリー(1857−1933)が約9000万年という数字を算出している。

 2)数多くの地質学者が堆積岩の厚さから地球の年齢を算出しようとした。その結果は,16億年〜300万年という,非常にばらつきの大きいものであった。

 3)当時は,地球が生成した頃には熱でドロドロに融けていた状態で,時間がたつに従って放熱によって冷却していったと考えられていた。ビュフォンは『博物誌』の第1巻で,熔融した鉄球が冷却する時間の測定から地球の年齢が7万4800年であると算出した。また,ダーウィンと同時代の物理学者であるケルヴィン卿(1824−1907)は『地球の年齢』(1893)という論文の中で,地球の最初の温度は2000℃以下で,その年齢は約2400万年であると算出した。

 19世紀末に放射性元素が発見され,20世紀の初めにはそれを用いて年代測定ができることがわかった。現在では地球の年齢は,約46億年とされている。

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