化学進化説

 ダーウィンの生物進化説が広く受け入れられるようになったのは,『種の起原』(1859)が出版されてから約10年後であった。生物が単純なものから複雑なものへ進化してきたということは,その進化の過程を逆にたどっていくと,地球上で最初の生物にまでさかのぼれるということである。それでは,最初の生命はどのようにして生まれたのであろうか?生命の自然発生説は,パスツールによって1864年に否定されている。

 進化説を提唱した当の本人であるC.ダーウィンは,友人の植物学者ジョセフ・フッカー(1817−1911)に宛てた手紙(1871)の中で最初の生物の誕生について次のように述べている。「現在,生物の一次的発生に必要なすべての条件があるとよくいわれる。もしも(それはなんと大きな”もしも”であろう),小さな暖かい水溜まりの中に,アンモニウム塩,リン酸塩,光,熱,電気などのあらゆるものがあれば,タンパク質が生成し,さらに複雑な変化を遂げただろう。しかし,そのようなことが現在起こっても,生成した物質は回りに存在する生物に食べられたり,吸収されたりしてしまうであろう」

 また,1870年代のイギリス科学振興協会において,ダーウィンの進化説を支持していた生物学者トーマス・ハックスレー(1825−1895)は,1871年に「もし生物をその構成要素にまで分解することができるなら,その過程を逆にして,構成要素を生物にまで再構成できるはずである」と述べた。また,物理学者ジョン・ティンダル(1820−1893)は1874年に,ある一定の条件が整えば無機化合物からの生物の発生は起こり得る,という発言をしている。『一般形態学』(1866)の著者である生物学者エルンスト・ヘッケル(1834−1919)は,生物と無生物の間には根本的な差はなく,物質である点には変わりがないと考えた。彼は,太古の海に溶解していた種々の物質の相互作用によって原始生命体が生じ,それは完全に均一な,無構造・無定形のタンパク質の塊(モネラ)であると考えた。

 これらの考えは,いわば,生命の自然発生説の復活であると考えられる。かつての自然発生説は,自然現象の誤った解釈を基にして成立していた。しかし,19世紀後半の科学者が提唱した生命の自然発生説は,当時隆盛だった生物の機械論に立脚していたと考えられる。

 以上の考えをまとめてみると,地球上に最初に出現した生物は生命のない物質から生じたということになる。そして,その中には漠然とではあるが,化学物質の進化という概念が存在している。この化学物質の進化,すなわち化学進化の概念を確立したのは,ソビエト連邦の生化学者アレクサンダー・オパーリン(1894−1980)である。彼は自分の考えを『生命の起原』(1924)という小冊子の形で発表した。そして,1957年に出版された『地球上での生命の起原』では,生命の発生のためには以下の物質進化の4段階が必要であると述べている。

           第1段階:炭化水素及び簡単な有機化合物の生成

           第2段階:アミノ酸,ヌクレオチドなどの,より複雑な有機化合物の生成

           第3段階:タンパク様物質,核酸様物質などの高分子物質の生成

           第4段階:代謝を行うことのできる高分子物質より成る多分子系の生成

 オパーリンは化学進化の第1段階として,まず炭化水素やその他の簡単な有機化合物が非生物的に生成したと考えた。オパーリンは原始地球の大気組成は還元的であり,次第に現在のような酸化的な大気に変化したと考えた。

 第2段階では,還元的な原始大気(メタン,アンモニア,水蒸気など)から,種々のエネルギー,例えば紫外線,放電,熱,放射線などによって,アミノ酸などの生物有機化合物が生成したと考えた。

 第3段階では,第2段階で生成した有機化合物が重縮合し,高分子量のタンパク様物質などが生成したと考えた。

 第4段階では,非生物的に生成した種々の生体高分子様物質が集合し,組織化されて,独立した多分子系が生成したと考えた。オパーリンは,この多分子系のモデルとして,親水コロイド溶液から相分離によって生成する,コアセルベート液滴を例として挙げている。このコアセルベート液滴は,外界から物質を取り入れて液滴内部で反応を行い,生成物を外部へ放出する。コアセルベート液滴のような,原始的な代謝を行う多分子系が進化して,最初の生物が出現したと考えられる。

 オパーリンとほぼ同時に,イギリスの遺伝学者ジョン・ホールデン(1892−1964)が,物質の進化の結果として最初の生命が誕生したという考えを,全く独立に発表した(1928)。ホールデンは次のように考えた。生物が出現する前の原始地球上では,紫外線が,水,二酸化炭素,アンモニアなどに作用して,有機物が無生物的に生成した。生成した有機化合物は海洋に集積したため,太古の海洋は熱くて薄いスープのようになった。この原始スープ(原始海洋)の中で有機物が相互作用を始めて,最初の生物が誕生した。

 今日の生命の起源に関する研究は,オパーリン・ホールデンの説を基にしていると言ってよい。彼らの時代に比べて,地球の成因論や原始地球の状態に関する情報が増えてはいるが,化学進化の大まかな道筋,すなわち,『単純な化学物質から複雑でより組織化された高分子物質が生成し,それらが相互作用を始めてついに原始的生物が誕生する』というシナリオは,現在でも広く受け入れられている。そして,化学進化を実験室内で再現しようとしている研究者たちがいる。

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